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新しい記事を書く事で広告が消せます。 ![]() 平時忠および平家一族の墓所は能登の山中に、ひっそりと身を隠すようにしてある。 能登の海岸線に沿ってR249を輪島から珠洲市方面に走る。珠洲市に入って間もなく道が二股に分かれるので、右側の道を山に向かって進んでいく。しばらくいくと左手に大きな案内板が掲げられ、駐車スペースになっている場所がある。そこに車を止めて道標に従って道路右側の坂(谷!?)を下りていく。7、80メートルほど下ったところに、籬で囲われた一角が現れる。その中が、時忠らを祀った空間である。 坂を下ると畑が目の前に広がり、畑と対面するように墓所の入り口がある。 中に入ると10基あまりの五輪塔が整然と並んでいる。外の蒸し暑さを忘れるような、身の引き締まるような空間である。 入り口から2,3個目の、ひときわ大きな五輪塔が時忠のものだという。 ![]() 北海道小樽市の中央墓地にある永倉新八の墓所。 新選組二番隊長永倉新八は、維新後北海道へ渡り、元藩医の杉村松柏の養子となり、杉村義衛と名乗りました。晩年は小樽に住み、この地で生涯を終えたそうです。 永倉の墓は、東京・板橋のものが有名ですが、この小樽の墓所のほか、札幌にもあり、岡山に供養碑があるそうです。 【墓参之記】 小樽の永倉新八の墓所に訪れたのは、2004年11月のことでした。 坂の町小樽の坂をどんどん登って行って、市街地から若干外れたあたりに中央墓地はあります。墓地の場所は地図にも明記されていますので、難なく行くことができます。 ネットからダウンロードした情報によると、墓地の入り口に斎場があって、その近くということでしたので、意外に簡単に見つかるだろう、とたかをくくっていました。 ところが、「近く」というのがなかなかの曲者でして、これがまたなかなか見つけることが出来ないのでした。「近く」とあるんだから、このあたりのはずで、そっち方面までは「近く」の範疇ではないだろう、という先入観で探していたせいでしょうか。 小樽滞在中3日間通って、3度目にしてようやく目的のお墓にたどりつくことが出来ました。 確かにネットの情報どおり「斎場の近く」でありました。 墓石には「永倉」ではなく「杉村」の文字が刻まれています。 新撰組の二番隊組長として活躍した彼ですが、新撰組の生き残り組みとして、明治の世をどんな思いで生きたのか、その胸のうちを察するのはあまりに重いものがあり、一言で片付けられるものではないでしょう。 晩年、孫と活動写真を見に行った帰り際、脱いだ履物を履こうとしていたところ、ヤクザ風情の男が年寄りと子供だと思って永倉を押しのけようとした、そのとき永倉がすかさず男を「ぎろり」とにらむと、男はぎょっとしてその場を立ち去ったという。 往年の新撰組隊士の面目躍如が感じられる、好きなエピソードのひとつです。 【永倉新八】天保10年(1839)9月12日〜大正4年(1915)1月5日 松前藩士永倉勘次の子として江戸で生まれる。18歳の時神道無念流の本目録を受ける。 25歳の時、試衛館の近藤勇らと浪士組に参加して上洛。新選組二番隊組長として活躍。甲陽鎮撫隊敗走後、近藤と衝突して隊を離脱。 明治以後は杉村義衛と改名。『新撰組顛末記』「浪士文久報國記事」などの記録を残す ![]() 北海道根室市西浜町の市営西浜墓地にある梶原平馬の墓所。 明治維新後、旧会津藩の名誉回復のために奔走し、青森県庁に務めていたこともあったが、庶務課長を2年務めた後消息を絶ったという。 昭和63年、根室市の同墓地で平馬の墓が発見された。風化してわかりにくいが「鳳樹院泰庵霊明居士」という法名が刻まれている(らしい)。 平馬は最初山川大蔵の姉を娶っていたが、後に離婚。 二度目の妻水野貞は、私立根室女子小学校の初代校長を務めるなど、女性教育者として根室の教育史に名を残す人物だそうで、その関係で根室に移り住んでいたらしい。 【墓参之記】 梶原平馬の墓所が根室の西浜墓地にあるということを知って、根室へ行くことになった時、これはもうお参りしてくるしかない、と思っていた。 同行する夫にそのことを告げたら、何も言わなかったが、おそらく又悪い虫が・・・とでも思ったことであろう。 根室市西浜町までたどりつき、おそらく墓所の近くであろうガソリンスタンドで、「西浜墓地」の場所を尋ね、場所はわかったものの、墓地に入ってからが大変だった。 見渡す限りの「墓石」(当たり前だが)。綺麗に区画整理されているが、これではどこに目的の墓があるのやら・・・ ネットで検索して印刷した写真を頼りに、一つひとつしらみつぶしに探すしかないか、と思い、同行した家族も動員させてお墓探しに奔走。 訪問したのが、ちょうどお盆にはいるの時期でもあり、お墓参りの人やお墓掃除に来ている人達がいた。 お墓掃除をしていたひとりの男性に 「梶原平馬の墓をご存知ありませんか?」と聞いてみた。 「梶原平馬???」 たぶん誰も知らないだろうな〜、と思っていたが、持っていた写真を見せると、 「たぶんこの写真からしてメインストリートより下のほうにあると思いますよ。」というお返事を頂戴し、その場をあとにした。(その後もその方はお一人でお墓探しを手伝ってくださったのでした。感謝です) 持っていた写真のお墓の背景には海(オホーツク海)が写り込み、平馬の墓の後ろに比較的新しい黒い墓石で「1992」という文字が刻まれたものが見える・・・ 海、黒い墓石、海、黒い墓石・・・・ そしてついに、発見。 それは蒼くきらめくオホーツク海を遠景にひっそりとたたずんでいた。 平馬の墓の背後に見えていた「1992」の文字は、幕末、ロシアへ漂流し、ラクスマン一行と共に根室にやってきた小市(伊勢白子の人)の慰霊碑に刻まれた文字であった。(1992年に建立) 本当に「ひっそりと」という表現がぴったりなくらいのお墓のたたずまいであった。平馬の後半生を物語っているような・・・ ![]() 小市の慰霊碑 【梶原平馬】 天保13(1843)〜明治22年(1889) 会津藩家老内藤信頼(2200石)の次男。梶原家に養子に入り、梶原家を継ぐ。 文久2年(1862)会津藩主松平容保が京都守護職として上洛すると、側近として随従。 戊辰戦争では主戦論を唱え、奥羽越列藩同盟に尽力する。 敗戦後、容保が江戸護送となった時、随行し、鳥取藩池田邸に幽閉される。容保の子容大の家名相続を新政府に嘆願するなど、旧会津藩の名誉回復のために奔走した。 明治3年斗南に移住し、青森県庁の庶務課長を務めたこともあったが、その後の消息は不明。明治22年没。47歳。 ![]() 寿福院は、前田利家の側室で、加賀藩第三代藩主前田利常の生母。石川県羽咋市の妙成寺(みょうじょうじ)というお寺に墓所があります。 妙成寺は北陸における日蓮宗の本山。 能登を領有した前田利家は、この寺を武運長久・領内安堵の祈願所と定め寺領を寄進しました。 寿福院(ちよぼ)は熱心な法華の信者で、彼女が亡くなると、子の利常は妙成寺を母の菩提寺とし、本堂を建立しました。 ![]() ↑妙成寺本堂 ![]() ↑妙成寺の五重塔遠景 【寿福院】 元亀元年(1570)〜寛永8年(1631) ちよ、ちよぼ 越前の大名朝倉氏の家臣上木新兵衛の娘。 はじめ、利家の正室まつの侍女として仕えていたが、朝鮮出兵の折、肥前名護屋の利家に仕え、利常を産む。 慶長19年(1614)、加賀藩2代藩主利長が亡くなり、子の利常が藩主になると、江戸で人質となっていた芳春院(まつ)に代わって江戸に赴いた。 寛永8年江戸藩邸にて没する。62歳。法名は寿福院華岳日栄大姉。 金沢市の野田山にも墓所がある。 【妙成寺】石川県羽咋市滝谷町ヨー1 公式サイト |
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