上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書く事で広告が消せます。 ![]() 平時忠および平家一族の墓所は能登の山中に、ひっそりと身を隠すようにしてある。 能登の海岸線に沿ってR249を輪島から珠洲市方面に走る。珠洲市に入って間もなく道が二股に分かれるので、右側の道を山に向かって進んでいく。しばらくいくと左手に大きな案内板が掲げられ、駐車スペースになっている場所がある。そこに車を止めて道標に従って道路右側の坂(谷!?)を下りていく。7、80メートルほど下ったところに、籬で囲われた一角が現れる。その中が、時忠らを祀った空間である。 坂を下ると畑が目の前に広がり、畑と対面するように墓所の入り口がある。 中に入ると10基あまりの五輪塔が整然と並んでいる。外の蒸し暑さを忘れるような、身の引き締まるような空間である。 入り口から2,3個目の、ひときわ大きな五輪塔が時忠のものだという。
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![]() 北海道根室市西浜町の市営西浜墓地にある梶原平馬の墓所。 明治維新後、旧会津藩の名誉回復のために奔走し、青森県庁に務めていたこともあったが、庶務課長を2年務めた後消息を絶ったという。 昭和63年、根室市の同墓地で平馬の墓が発見された。風化してわかりにくいが「鳳樹院泰庵霊明居士」という法名が刻まれている(らしい)。 平馬は最初山川大蔵の姉を娶っていたが、後に離婚。 二度目の妻水野貞は、私立根室女子小学校の初代校長を務めるなど、女性教育者として根室の教育史に名を残す人物だそうで、その関係で根室に移り住んでいたらしい。 【墓参之記】 梶原平馬の墓所が根室の西浜墓地にあるということを知って、根室へ行くことになった時、これはもうお参りしてくるしかない、と思っていた。 同行する夫にそのことを告げたら、何も言わなかったが、おそらく又悪い虫が・・・とでも思ったことであろう。 根室市西浜町までたどりつき、おそらく墓所の近くであろうガソリンスタンドで、「西浜墓地」の場所を尋ね、場所はわかったものの、墓地に入ってからが大変だった。 見渡す限りの「墓石」(当たり前だが)。綺麗に区画整理されているが、これではどこに目的の墓があるのやら・・・ ネットで検索して印刷した写真を頼りに、一つひとつしらみつぶしに探すしかないか、と思い、同行した家族も動員させてお墓探しに奔走。 訪問したのが、ちょうどお盆にはいるの時期でもあり、お墓参りの人やお墓掃除に来ている人達がいた。 お墓掃除をしていたひとりの男性に 「梶原平馬の墓をご存知ありませんか?」と聞いてみた。 「梶原平馬???」 たぶん誰も知らないだろうな?、と思っていたが、持っていた写真を見せると、 「たぶんこの写真からしてメインストリートより下のほうにあると思いますよ。」というお返事を頂戴し、その場をあとにした。(その後もその方はお一人でお墓探しを手伝ってくださったのでした。感謝です) 持っていた写真のお墓の背景には海(オホーツク海)が写り込み、平馬の墓の後ろに比較的新しい黒い墓石で「1992」という文字が刻まれたものが見える・・・ 海、黒い墓石、海、黒い墓石・・・・ そしてついに、発見。 それは蒼くきらめくオホーツク海を遠景にひっそりとたたずんでいた。 平馬の墓の背後に見えていた「1992」の文字は、幕末、ロシアへ漂流し、ラクスマン一行と共に根室にやってきた小市(伊勢白子の人)の慰霊碑に刻まれた文字であった。(1992年に建立) 本当に「ひっそりと」という表現がぴったりなくらいのお墓のたたずまいであった。平馬の後半生を物語っているような・・・ ![]() 小市の慰霊碑 【梶原平馬】 天保13(1843)?明治22年(1889) 会津藩家老内藤信頼(2200石)の次男。梶原家に養子に入り、梶原家を継ぐ。 文久2年(1862)会津藩主松平容保が京都守護職として上洛すると、側近として随従。 戊辰戦争では主戦論を唱え、奥羽越列藩同盟に尽力する。 敗戦後、容保が江戸護送となった時、随行し、鳥取藩池田邸に幽閉される。容保の子容大の家名相続を新政府に嘆願するなど、旧会津藩の名誉回復のために奔走した。 明治3年斗南に移住し、青森県庁の庶務課長を務めたこともあったが、その後の消息は不明。明治22年没。47歳。 ![]() 寿福院は、前田利家の側室で、加賀藩第三代藩主前田利常の生母。石川県羽咋市の妙成寺(みょうじょうじ)というお寺に墓所があります。 妙成寺は北陸における日蓮宗の本山。 能登を領有した前田利家は、この寺を武運長久・領内安堵の祈願所と定め寺領を寄進しました。 寿福院(ちよぼ)は熱心な法華の信者で、彼女が亡くなると、子の利常は妙成寺を母の菩提寺とし、本堂を建立しました。 ![]() ↑妙成寺本堂 ![]() ↑妙成寺の五重塔遠景 【寿福院】 元亀元年(1570)?寛永8年(1631) ちよ、ちよぼ 越前の大名朝倉氏の家臣上木新兵衛の娘。 はじめ、利家の正室まつの侍女として仕えていたが、朝鮮出兵の折、肥前名護屋の利家に仕え、利常を産む。 慶長19年(1614)、加賀藩2代藩主利長が亡くなり、子の利常が藩主になると、江戸で人質となっていた芳春院(まつ)に代わって江戸に赴いた。 寛永8年江戸藩邸にて没する。62歳。法名は寿福院華岳日栄大姉。 金沢市の野田山にも墓所がある。 【妙成寺】石川県羽咋市滝谷町ヨー1 公式サイト ![]() 第30代敏達天皇の皇后息長(おきなが)広姫の御陵。 周りはのどかな田園地帯で、その中にひっそりとたたずんでいます。 かつては前方後円墳か何かの形態をしていたのでしょうが、現在はいわゆる古墳の形態をなしていません。 静かに手を合わせると、背筋がしゃんとする思いがします。 【息長広姫】 第30代敏達天皇の皇后。天皇との間に押坂彦人大兄皇子と2皇女を儲ける。(押坂彦人大兄皇子は舒明天皇の父) 息長氏は渡来氏族で、伊吹山一帯に勢力を張った豪族で、3世紀から6世紀にかけて皇后を送り出すなど、大王家と深いかかわりを持った豪族である。 【息長陵】 米原市村居田 ![]() 徳勝寺は、長浜駅から車で約5分。歩いても10?15分くらいの距離でしょうか。静かな住宅街の中にあります。 ここは浅井家の菩提寺。こじんまりとした寺院です。 浅井氏は、北近江の小谷城主として精力を張った戦国大名でした。亮政のときに北近江を制圧し、子の久政、孫の長政と続きます。 天正元年(1573)8月、織田信長に攻められて小谷城は落城し、久政・長政父子は自刃して果てました。 徳勝寺はもとは小谷城下にありましたが、秀吉によって長浜に移されました。 右から久政、亮政、長政の宝篋印塔が並んでいます。 【浅井亮政】 ??天文11年(1542) もと京極氏の被官であったが、天文3年(1534)ごろには江北(北近江)の地を押さえた。 天文11年正月6日、小谷城で死去。 【浅井久政】 (?)?天正元年(1573) 亮政の子。天文16年(1542)家督を継ぐ。 京極氏・六角氏らに圧迫され、苦境にあった。 天正元年、小谷城落城の時自刃。 【浅井長政】 天文14年(1545)?天正元年 久政の嫡男。永禄3年(1560)家督を継ぐ。同年六角義賢を破り、その後勢力圏を広める。 信長と同盟関係を結び、永禄11年には信長の妹お市の方を妻に迎えた。 信長が越前進出を始めると、以前から同盟関係にあった越前朝倉氏に加担し、信長と敵対することになる。 元亀元年(1570)6月姉川で織田・徳川連合軍に敗れ、天正元年8月、朝倉氏の滅亡に続いて小谷城も陥落。長政は父久政とともに自刃。 落城直前にお市の方と3人の娘(後の淀殿、京極高次妻・お初、徳川秀忠室・お江)は城を脱した。 【徳勝寺】長浜市平方町 |
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