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寿福院墓所
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寿福院は、前田利家の側室で、加賀藩第三代藩主前田利常の生母。石川県羽咋市の妙成寺(みょうじょうじ)というお寺に墓所があります。

妙成寺は北陸における日蓮宗の本山。
能登を領有した前田利家は、この寺を武運長久・領内安堵の祈願所と定め寺領を寄進しました。

寿福院(ちよぼ)は熱心な法華の信者で、彼女が亡くなると、子の利常は妙成寺を母の菩提寺とし、本堂を建立しました。


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↑妙成寺本堂


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↑妙成寺の五重塔遠景


【寿福院】 元亀元年(1570)?寛永8年(1631)
ちよ、ちよぼ
越前の大名朝倉氏の家臣上木新兵衛の娘。
はじめ、利家の正室まつの侍女として仕えていたが、朝鮮出兵の折、肥前名護屋の利家に仕え、利常を産む。
慶長19年(1614)、加賀藩2代藩主利長が亡くなり、子の利常が藩主になると、江戸で人質となっていた芳春院(まつ)に代わって江戸に赴いた。
寛永8年江戸藩邸にて没する。62歳。法名は寿福院華岳日栄大姉。
金沢市の野田山にも墓所がある。

【妙成寺】石川県羽咋市滝谷町ヨー1
公式サイト

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【2005/06/27 10:10】 前田家 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
前田安勝・利好の墓
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これも七尾市長齢寺にある前田安勝とその子利好の墓。

安勝は前田利家のすぐ上の兄で、利家がもっとも頼りとしていた人物の一人です。
豊臣政権の重鎮となった利家に代わって、特に能登の統治を任せられました。天正10年(1582)越中における織田軍対上杉戦においては、前線にあった利家らを後方から支援するなどして大いに戦功を上げました。
兄でありながら弟を支え、常に裏方に徹していた安勝。彼なくしては利家も中央と領国と上手く治めていくこともまかりならなかったでしょう。

安勝の死後、子の利好がその跡をついで、七尾城代となりますが、利好の死後は利家の子知好がその名跡を継ぎました。

彼らの墓は七尾の町を見下ろす高台に建てられています。
死してなお、安勝父子は七尾の町を見守り続けているのです。

なお、長齢寺の宝物館には安勝の肖像画も展示されています。


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宝篋印塔
利家と利長の供養塔。右が利家で、左が利長のもの。




【前田安勝】 ??文禄3年(1595)
 前田利春の三男で、利家の兄。通称五郎兵衛。
 文禄3年5月22日没。法名は天翁道清居士。


【前田利好(良継】 1565?1605
 安勝の嫡男。通称播磨。安勝の死後、七尾城代を継ぐ。


【前田知好】 1590?1628
 前田利家の三男。通称修理。母は利家側室の在(小塚氏)。
 7歳の時仏門に入るが、長じて還俗し、兄で2代藩主前田利長に仕える。慶長15年利好が没するとその名跡をついで七尾城代となる。大坂の陣にも参戦。幕府の一国一城令によって七尾城が廃城となると、元和2年京都鞍馬山に隠棲し、剃髪して「有庵」と称した。
 
【2005/05/27 10:15】 前田家 | トラックバック(0) | コメント(1) | Page top↑
前田利春・長齢夫人の墓
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加賀藩初代前田利家の両親、前田利春(利昌)とその夫人の墓所です。石川県七尾市の長齢寺にあります。

利家は越前府中に封じられた時、同地の宝円寺の大透圭徐(だいとうけいじょ)禅師に帰依し、宝円寺を両親の菩提寺としました。その後、天正9年(1581)に能登に封じられて七尾に来ると、大透圭徐を招き、宝円寺を建立。両親の位牌を安置し、墓所を建立しました。
天正11年(1583)、利家は金沢城に入城すると金沢に宝円寺を建立します。それによって七尾の「宝円寺」は両親の法名を取って「休嶽山長齢寺」と改称し、現在に至っています。

墳墓は苔むしていますが、仲良く並んだように墳墓に墓石が載せられており、生前の仲睦まじさを彷彿とします。


【前田利春(利昌)】 ??永禄3年(1560)
 実名を利春、利昌、利勝、家則とも伝える。仮名は縫殿助。
 父利隆の代より荒子の土豪であったらしいが、事績は不明。
 永禄3年7月13日没。法名は道機庵休嶽居士。
 子女に、4男利家のほか、長男利久、次男利玄(としはる)、3男安勝、5男佐脇良之、6男秀継、女子2人がいる。

【長齢夫人】 ??天正元年(1573)
 竹野氏。詳細不詳。
 天正元年11月24日没。法名は長齢院妙久大姉。

【休嶽山長齢寺】
 宝物館には利家が奉納したという長齢夫人の画像、長谷川等伯作と伝えられる利春の画像などが展示されています。

 石川県七尾市小島町/山の寺遊歩道内
 普通車であれば寺の横の駐車場に駐車可。
 「瞑想の道」入り口駐車場に止めての散策もおすすめ。
 拝観料:400円


 
【2005/05/26 11:18】 前田家 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
利常灰塚
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加賀藩第三代藩主前田利常は、藩祖前田利家の四男で、兄利長の養嗣子となり、第3代藩主を継ぎました。
万治元年(1658)、江戸城普請から帰国した利常は、普請の気苦労から解放されたためか、隠居城である小松城で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

利常はこの地で荼毘に伏せられ、野田山の墓所に葬られました。
石碑には「加越能国主従二位前田利常公灰塚之址」の文字が記されています。


前田利常】 文禄2年(1593)?万治元年(1658)
父は前田利家。母は寿福院(ちよぼ)。
子のない異母兄の利長の養子となり、前田家を継ぐ。
正室は2代将軍徳川秀忠の娘の珠姫(天徳院)。
寛永16年嫡男光高に家督を継がせるが、時を同じくして次男利次を富山藩(10万石)に、三男利治(7万石)を大聖寺藩に分封した。
幕府の一国一城令の例外として、利常は隠居城として小松城を認められた。
子の光高が正保2年(1645)36歳で没すると、その子綱紀がわずか3歳で家督を継いだため、利常は綱紀の後見として、再び藩政を見ることとなった。
「改作法」などによって加賀藩の財政の基盤を築いた。
また、江戸において、幕府の警戒を解くために鼻毛を伸ばして「うつけの殿」を装っていたという逸話は有名である。


利常灰塚
小松市埴田町の加賀産業道路沿いにある。(金沢から加賀方面に向かって左手)
【2005/04/29 09:55】 前田家 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
前田利長墓所
加賀藩第2代藩主前田利長の墓所。
利長の墓所は、金沢市の野田山にもありますが、こちらは富山県高岡市のもの。
利長は、異母弟の利常に家督を譲ると、富山城に入りました。ところが富山城が火災で焼失してしまったため、現在の高岡の地に城を築き、この地で没しました。(慶長19年没)

跡を継いだ利常は、菩提寺として瑞龍寺を建立しました。その瑞龍寺の正門からまっすぐに伸びる八丁道と呼ばれる道の先に、利長の墓所はあります。この墓所は、正保2年(1645)、利常が利長の33回忌に建てたもの。現在の墓所の広さは10557?(約3199坪)、堀と石垣に囲まれた石塔(写真)の高さは11.8メートルと武将の墓としては全国でも屈指の大きさを誇っています。

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墓所の入り口


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夕闇迫る頃参詣したので、画像が見づらくなっています・・・・


前田利長】 永禄5年(1562)?慶長19年(1614)
 前田利家の長男。母は芳春院。加賀藩第2代藩主。織田信長の娘永姫を妻とする。
 天正13年(1585)秀吉より越中砺波・射水・婦負三郡を与えられ、守山城主(現富山県)となる。慶長3年(1598)、家督相続、翌年父利家が死去すると、五大老の一人として秀頼を輔弼していたが、やがて徳川家康の勧めもあって国許に帰った。帰国した利長は、家康から謀反の嫌疑をかけられるが、母芳春院を証人とすることで事なきを得た。
 関ヶ原の合戦では東軍につく。北国での戦功が認められ、40万石を加増され、加越能120万石の大名となる。
 利長は異母弟の利常を養嗣子とし、家督を継がせる。慶長19年(1614)5月病没。
 一説に、利長の死は、大坂の陣を前にして、大阪方から味方するよう誘いがあったことなどから、利常の立場を慮っての服毒死であったとする。
 

前田利長墓所】高岡市大野


【2005/04/22 09:47】 前田家 | トラックバック(0) | コメント(1) | Page top↑
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