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武田典厩信繁の墓
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武田信玄の実弟で、永禄4年(1561)第四次川中島合戦において戦死した典厩信繁の墓所です。
上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いは、数度にわたって行なわれましたが、第四次の合戦は中でも最も激しい戦闘が行なわれ、上杉軍、武田軍ともに多大な負傷者を出しました。
山本勘助によるきつつき戦法、謙信と信玄の一騎討ちなど華々しい合戦譚が伝えられていますが、これらは全て、このときの合戦においてのものでした。(真偽のほどはともかく(^_^;))
この合戦で、武田信繁は武田軍の副将として出陣していましたが、奮戦の末、命を落とし、遺骸をこの寺に葬りました。
墓石には「松操院殿鶴山巣月大居士」という信繁の法号が刻まれています。

墓所のある典厩寺は八幡原史跡公園(八幡原弧線城跡)の近く、千曲川の河岸にあります。
境内には信繁の首を洗ったという「典厩信繁首清めの井戸」や、寺に伝わる品々を展示した「川中島合戦記念館」などがあります。
本堂の前には「風林火山」の武田軍旗と上杉軍の「毘」旗が仲良く(?)はためいています。

tenkyuji.jpg



【武田信繁】 大永5年(1525)?永禄4年(1561)
 甲斐武田信虎の次男で信玄の弟。
 元服後に左馬助の官職に就くが、典厩とはこの官職の中国名である。
 父信虎は最初信繁に家督を継がせようとしたという。
 しかし信繁は信玄の補佐役に徹し、永禄元年(1558)には『信繁家訓百箇』として家臣団の信玄への忠誠を定めた。
 永禄4年の川中島合戦で戦死。
 後に真田昌幸は、彼の武将としての人柄を尊敬し、彼にあやかって、自分の次男を「信繁」と名づけた。


【典厩寺】 長野市篠ノ井杵渕1000

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【2005/05/03 19:27】 武田家 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
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