スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
【--/--/-- --:--】 スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | Page top↑
息長陵
okinaga.jpg


第30代敏達天皇の皇后息長(おきなが)広姫の御陵。
周りはのどかな田園地帯で、その中にひっそりとたたずんでいます。
かつては前方後円墳か何かの形態をしていたのでしょうが、現在はいわゆる古墳の形態をなしていません。
静かに手を合わせると、背筋がしゃんとする思いがします。


【息長広姫】 第30代敏達天皇の皇后。天皇との間に押坂彦人大兄皇子と2皇女を儲ける。(押坂彦人大兄皇子は舒明天皇の父)
 息長氏は渡来氏族で、伊吹山一帯に勢力を張った豪族で、3世紀から6世紀にかけて皇后を送り出すなど、大王家と深いかかわりを持った豪族である。

【息長陵】 米原市村居田
スポンサーサイト
【2005/05/30 10:18】 古代 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
浅井家三代の墓
azai.jpg



徳勝寺は、長浜駅から車で約5分。歩いても10?15分くらいの距離でしょうか。静かな住宅街の中にあります。
ここは浅井家の菩提寺。こじんまりとした寺院です。

浅井氏は、北近江の小谷城主として精力を張った戦国大名でした。亮政のときに北近江を制圧し、子の久政、孫の長政と続きます。
天正元年(1573)8月、織田信長に攻められて小谷城は落城し、久政・長政父子は自刃して果てました。

徳勝寺はもとは小谷城下にありましたが、秀吉によって長浜に移されました。

右から久政、亮政、長政の宝篋印塔が並んでいます。


【浅井亮政】 ??天文11年(1542)
 もと京極氏の被官であったが、天文3年(1534)ごろには江北(北近江)の地を押さえた。
 天文11年正月6日、小谷城で死去。

【浅井久政】 (?)?天正元年(1573)
 亮政の子。天文16年(1542)家督を継ぐ。
 京極氏・六角氏らに圧迫され、苦境にあった。
 天正元年、小谷城落城の時自刃。

【浅井長政】 天文14年(1545)?天正元年
 久政の嫡男。永禄3年(1560)家督を継ぐ。同年六角義賢を破り、その後勢力圏を広める。
 信長と同盟関係を結び、永禄11年には信長の妹お市の方を妻に迎えた。
 信長が越前進出を始めると、以前から同盟関係にあった越前朝倉氏に加担し、信長と敵対することになる。
 元亀元年(1570)6月姉川で織田・徳川連合軍に敗れ、天正元年8月、朝倉氏の滅亡に続いて小谷城も陥落。長政は父久政とともに自刃。
 落城直前にお市の方と3人の娘(後の淀殿、京極高次妻・お初、徳川秀忠室・お江)は城を脱した。


【徳勝寺】長浜市平方町


【2005/05/29 11:55】 戦国時代 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
前田安勝・利好の墓
nana01.jpg


これも七尾市長齢寺にある前田安勝とその子利好の墓。

安勝は前田利家のすぐ上の兄で、利家がもっとも頼りとしていた人物の一人です。
豊臣政権の重鎮となった利家に代わって、特に能登の統治を任せられました。天正10年(1582)越中における織田軍対上杉戦においては、前線にあった利家らを後方から支援するなどして大いに戦功を上げました。
兄でありながら弟を支え、常に裏方に徹していた安勝。彼なくしては利家も中央と領国と上手く治めていくこともまかりならなかったでしょう。

安勝の死後、子の利好がその跡をついで、七尾城代となりますが、利好の死後は利家の子知好がその名跡を継ぎました。

彼らの墓は七尾の町を見下ろす高台に建てられています。
死してなお、安勝父子は七尾の町を見守り続けているのです。

なお、長齢寺の宝物館には安勝の肖像画も展示されています。


nanao02.jpg

宝篋印塔
利家と利長の供養塔。右が利家で、左が利長のもの。




【前田安勝】 ??文禄3年(1595)
 前田利春の三男で、利家の兄。通称五郎兵衛。
 文禄3年5月22日没。法名は天翁道清居士。


【前田利好(良継】 1565?1605
 安勝の嫡男。通称播磨。安勝の死後、七尾城代を継ぐ。


【前田知好】 1590?1628
 前田利家の三男。通称修理。母は利家側室の在(小塚氏)。
 7歳の時仏門に入るが、長じて還俗し、兄で2代藩主前田利長に仕える。慶長15年利好が没するとその名跡をついで七尾城代となる。大坂の陣にも参戦。幕府の一国一城令によって七尾城が廃城となると、元和2年京都鞍馬山に隠棲し、剃髪して「有庵」と称した。
 
【2005/05/27 10:15】 前田家 | トラックバック(0) | コメント(1) | Page top↑
前田利春・長齢夫人の墓
nanao03.jpg


加賀藩初代前田利家の両親、前田利春(利昌)とその夫人の墓所です。石川県七尾市の長齢寺にあります。

利家は越前府中に封じられた時、同地の宝円寺の大透圭徐(だいとうけいじょ)禅師に帰依し、宝円寺を両親の菩提寺としました。その後、天正9年(1581)に能登に封じられて七尾に来ると、大透圭徐を招き、宝円寺を建立。両親の位牌を安置し、墓所を建立しました。
天正11年(1583)、利家は金沢城に入城すると金沢に宝円寺を建立します。それによって七尾の「宝円寺」は両親の法名を取って「休嶽山長齢寺」と改称し、現在に至っています。

墳墓は苔むしていますが、仲良く並んだように墳墓に墓石が載せられており、生前の仲睦まじさを彷彿とします。


【前田利春(利昌)】 ??永禄3年(1560)
 実名を利春、利昌、利勝、家則とも伝える。仮名は縫殿助。
 父利隆の代より荒子の土豪であったらしいが、事績は不明。
 永禄3年7月13日没。法名は道機庵休嶽居士。
 子女に、4男利家のほか、長男利久、次男利玄(としはる)、3男安勝、5男佐脇良之、6男秀継、女子2人がいる。

【長齢夫人】 ??天正元年(1573)
 竹野氏。詳細不詳。
 天正元年11月24日没。法名は長齢院妙久大姉。

【休嶽山長齢寺】
 宝物館には利家が奉納したという長齢夫人の画像、長谷川等伯作と伝えられる利春の画像などが展示されています。

 石川県七尾市小島町/山の寺遊歩道内
 普通車であれば寺の横の駐車場に駐車可。
 「瞑想の道」入り口駐車場に止めての散策もおすすめ。
 拝観料:400円


 
【2005/05/26 11:18】 前田家 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
巴塚・葵塚
富山県と石川県の県境にある倶利伽羅峠。
木曽義仲軍と平維盛軍が激突し、「火牛の計」を用いて義仲軍が平家軍を撃退したことで有名なところです。
この倶利伽羅峠の麓、富山県小矢部市側に建つ塚です。


◆巴塚◆

kurikara06.jpg


巴御前は木曽義仲の愛妾であり、倶利伽羅の戦いでは兵1000余騎を率いて参戦しました。
彼女はここで命を落としたわけではありませんが、彼女の奮闘を讃える意味での碑でしょうか。


◆葵塚◆

kurikara07.jpg


巴塚よりやや奥まった場所に建つ葵塚。
彼女も倶利伽羅の戦いに参戦し、この地で命を落としました。
「葵は寿永二年五月砺波山の戦に討死す
 屍を此の地に埋め墳を築かしむ」
と碑文にあるとおり、巴塚は平地に建っているのに対し、葵塚のほうは土盛がされた上にこの碑が建っています。


【巴御前】
木曽義仲の養い親である中原兼遠の娘。義仲の四天王、樋口兼光・今井兼平とは兄妹にあたる。
『平家物語』に、「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。」とあり、強力の持ち主だったとも言われている。
義仲について戦に参戦。義仲の死後の巴の動向は不詳だが、『源平盛衰記』によると、平家滅亡後、鎌倉に行き、頼朝の御家人である和田義盛に嫁ぎ、朝比奈三郎義秀を産んだという。和田合戦で義盛が命を落とした後、昔の縁を頼って越中の石黒氏のもとに身を寄せ、尼となって91歳まで生きながらえたという。


【葵御前】
不詳
【2005/05/15 10:58】 源平関係 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
為盛塚
tamemotituka.jpg


寿永2年(1183)5月11日・・・
北陸道を通って京師へ進軍する木曽義仲の軍と、義仲追討のため京師を発った平維盛を総大将とする平家軍は砺波山で対峙します。
義仲の火牛の計によって、平家軍にとって地獄絵図さながらの一夜が明け、翌12日未明・・・
源氏方に逆襲を図ろうと、三河守知度と平為盛が、手勢50騎あまりを率いて、敵の中に駈け入りました。
赤地錦の直垂に、紫裾ごの冑をかぶり、黒鹿毛の馬に乗った知度、一方の為盛も、魚綾の直垂に萌黄匂の冑をつけ、連銭葦毛の馬に乗っています。見目麗しい両人のいでたちは、遠目にも相応の武将と見受けられます。
源氏方に取り囲まれ、奮戦の末、もはやこれまでと悟った知度は自害して果てました。
為盛も、源氏の兵と組み合っているところを、義仲の郎党樋口次郎兼光によって首をはねられました。

この塚は、為盛を弔うために造られたもので、鎌倉時代の建設であるそうです。


【平為盛】 
 池の大納言平頼盛(忠盛の五男。清盛の弟)の子。木曽義仲討伐軍に平維盛の武将として参戦したが、樋口次郎に首をはねられ死亡。

【平知度(とものり)】
 清盛の七男。三河守。富士川・墨俣両合戦にも参戦した。

【樋口次郎兼光】 
 木曽義仲の家臣。弟の今井四郎兼平と共に義仲に従軍。義仲の愛妾巴御前は、兼光の妹。


【為盛塚】 倶利伽羅峠 源平供養塔の裏手にある。
【2005/05/06 12:03】 源平関係 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
武田典厩信繁の墓
tenkyu.jpg



武田信玄の実弟で、永禄4年(1561)第四次川中島合戦において戦死した典厩信繁の墓所です。
上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いは、数度にわたって行なわれましたが、第四次の合戦は中でも最も激しい戦闘が行なわれ、上杉軍、武田軍ともに多大な負傷者を出しました。
山本勘助によるきつつき戦法、謙信と信玄の一騎討ちなど華々しい合戦譚が伝えられていますが、これらは全て、このときの合戦においてのものでした。(真偽のほどはともかく(^_^;))
この合戦で、武田信繁は武田軍の副将として出陣していましたが、奮戦の末、命を落とし、遺骸をこの寺に葬りました。
墓石には「松操院殿鶴山巣月大居士」という信繁の法号が刻まれています。

墓所のある典厩寺は八幡原史跡公園(八幡原弧線城跡)の近く、千曲川の河岸にあります。
境内には信繁の首を洗ったという「典厩信繁首清めの井戸」や、寺に伝わる品々を展示した「川中島合戦記念館」などがあります。
本堂の前には「風林火山」の武田軍旗と上杉軍の「毘」旗が仲良く(?)はためいています。

tenkyuji.jpg



【武田信繁】 大永5年(1525)?永禄4年(1561)
 甲斐武田信虎の次男で信玄の弟。
 元服後に左馬助の官職に就くが、典厩とはこの官職の中国名である。
 父信虎は最初信繁に家督を継がせようとしたという。
 しかし信繁は信玄の補佐役に徹し、永禄元年(1558)には『信繁家訓百箇』として家臣団の信玄への忠誠を定めた。
 永禄4年の川中島合戦で戦死。
 後に真田昌幸は、彼の武将としての人柄を尊敬し、彼にあやかって、自分の次男を「信繁」と名づけた。


【典厩寺】 長野市篠ノ井杵渕1000

【2005/05/03 19:27】 武田家 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
PROFILE
よーぜん
  • よーぜん
  • RSS
CALENDAR
04 « 2005 / 05 » 06
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
RECENT ENTRIES
RECENT COMMENTS
RECENT TRACKBACKS
ARCHIVES
CATEGORY
LINKS
SEARCH
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。