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平時忠の墓
平時忠の墓


平時忠および平家一族の墓所は能登の山中に、ひっそりと身を隠すようにしてある。

能登の海岸線に沿ってR249を輪島から珠洲市方面に走る。珠洲市に入って間もなく道が二股に分かれるので、右側の道を山に向かって進んでいく。しばらくいくと左手に大きな案内板が掲げられ、駐車スペースになっている場所がある。そこに車を止めて道標に従って道路右側の坂(谷!?)を下りていく。7、80メートルほど下ったところに、籬で囲われた一角が現れる。その中が、時忠らを祀った空間である。

坂を下ると畑が目の前に広がり、畑と対面するように墓所の入り口がある。
中に入ると10基あまりの五輪塔が整然と並んでいる。外の蒸し暑さを忘れるような、身の引き締まるような空間である。
入り口から2,3個目の、ひときわ大きな五輪塔が時忠のものだという。

時忠の姉時子は清盛の妻(二位の尼)、また、妹の滋子は後白河法皇の女御で、高倉天皇を生んだ。正二位権大納言に進み、高倉帝の外戚として、権勢を欲しいままにした。平家の権勢というと清盛ばかりに目が行くが、時忠はある意味清盛以上に権勢を誇っていたといえるのかもしれない。
「平家にあらずんば人にあらず。」と豪語したのも、この人である。
時忠は、検非違使の別当(長官)に3度もなって、搦めとった盗賊らの腕を切り落として追放したり、屋島にて、和睦交渉に訪れた朝廷の使者の顔に「波形」という焼印を押したりと、その所業はなかなかに凄まじい。

寿永4年(1185)、壇ノ浦で捕縛された時忠は、しばらく都に留め置かれたが、能登に配流が決まった。
捕縛の後、時忠は源義経のもとに自分の愛娘を嫁がせる。源氏方の目に留まっては大変なことになるであろう文が義経に取られてあるので、それを取り返さんがための婚姻だったという。果たして無事に件の文を取り返した時忠は、文を焼き捨てたというが、一体どんなことが書かれた文だったのか、今となっては知る由もない。

私は、平時忠という人をあまり好きではない。
「見るべき程の事をば見つ」といって、壇ノ浦に沈んだ知盛や、発心して入水した惟盛のような潔さがない。
非道な所業の末、処々の合戦に破れ、一門の者が多く亡くなる中、一門の「長老」とでも言うべき立場にありながら、最期までわが身の保身を図っていた。時忠の人生はまさに人間の業そのものである。

都にあって、平家の一門として、また帝の外戚として権力を振るっていた事実と、能登の山中に、人目を憚るようにひっそりと葬られている現実と・・・。同じ人の辿った運命である。「諸行無常」という人生のありようをまざまざと見せ付けられる思いがするのである。


【平時忠】1127年?1189年
兵部権大輔時信の子。清盛の妻時子の兄。
右衛門督、検非違使別当、権中納言、正2位権大納言に任じられる。
1185年壇ノ浦で捕縛され、能登に配流となる。
1189年4月24日配所にて死去。(『吾妻鏡』)
ただし、時忠の末裔である則貞家の伝承では元久元年(1204)4月24日に没したと伝えられているという。

なお、時忠と共に葬られている平家一族とは、時忠の子時康の子孫の則貞家の人々で、代々時忠の墓所を護持していたという。



*本記事は拙サイト「春雁抄」の記事から転載、加筆しました。
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【2006/09/01 14:54】 源平関係 | トラックバック(0) | コメント(0) | Page top↑
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